文系プログラマの憂鬱

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やれやれ、僕は帰宅した。

Angel Beats!は客観性でオタクを殺す

 この記事を書いている今は2016年の7月半ばである。

 

 会社に向かうため、電車に引きずられた熱気が逆巻く駅のホームに立っている。先日、AbemaTVというサービスで一挙放送されていた「Angel Beats!」というアニメを見た。

 

 Angel Beats!というのは、2010年放送、Key原作の学園青春群像劇だ。この記事はその感想文ということになる。2016年にもなって、2010年放映のアニメの感想を書く意味があるかというと、無いのかもしれない。

 

 今日はちょうど梅雨が開けたらしいニュースが流れた日で、全身にまとわりつく熱気と湿気、そして照りつける太陽はいよいよ本格的に夏であるらしいことを感じさせる。
 
 Angel Beats!を見終わった達成感と、最終話の切なさ、終わってしまった一連の物語にいつも感じる定番のあの空虚な感覚、そして幾つかの疑問点を抱えながら、電車に乗った。そして、つり革を掴みつつ揺られながら、あることを思い立った。語らなねばならないことがあると思った。
 
 もう6年も前の作品であるから、すでにたくさんのブログや2chのスレで内容については解説されている。設定やキャラの詳細などはそちらに譲ろう。
 
 多くの人が言うように、疑問点を上げればキリがない作品ではあると思う。脚本の穴、設定の穴と言われるものがあまりにも目立つ。しかし、Angel Beats!への疑問・批判はすでに放映当時に山のようにされていただろう。2016年も半分を過ぎた今、これ以上は言及しない。
 

 総合的な感想としては、それでも一部の尖った設定がとても面白く、全話を通して楽しめた。どうやら昨年発売されたらしいゲームを買う気になったという意味では、AbemaTVの一挙放送は、宣伝効果があったのかもしれない。
(ただ、やはりゆりっぺの「その子、天使じゃないわよ」だけはどうにかならなかったのか、とは思うが)

 

 今回、書いておきたいのは作品の評価ではなく、設定だ。このAngel Beats!という作品は、キャラやストーリーの魅力に支えられた作品とは、あまり思えない。「青春をまともに送れなかった人間が、学園生活を楽しく送ることで満足して成仏していく世界」という設定の“ヤバさ“に支えられた作品なのではないかと思う。

 

 主人公たち死んだ世界戦線(SSS)の当初の目的は、神らしき存在により自分たちが勝手に「成仏」させられることを阻止するというものだ(成仏と書いたが、仏教的な意味は殆ど無い)。

 SSSは成仏するまでには一定の過程があることを知っており、「天使」と名付けられた美少女キャラクターに接触するか、正しい学園生活を送ると成仏するらしいことまでを突き止めている。

 そのため、SSSは日夜「マトモに学生生活を送らず」、「天使」と学園構内で銃撃戦を繰り広げている。これは、教師や天使(生徒会長の役職についている)の言うことを聞いて「正しい」学生生活をまじめに送っていると青春に満足して成仏してしまうためだ。

 

 さて、この設定、いかがだろうか?

 

 この設定はアニメ開始数話でサラッと明らかにされる(その時点では憶測という形であるが)のだが、この設定を聞いた時にはかなり動揺した。まず「おいおいなんだこの設定は」と思ったし、次に制作サイドの心配をした。こいつらは刺されるんじゃないか?と素直に思った。
 後半では、「この世界には、生前にまともな青春を送れなかった学生がやってきて、正しい青春を送ることで満足して成仏する」という設定が正式に天使(かなで)の口から語られる。
 そこで、疑念は確信に変わった。この作品はヤバい。オタクを殺しに来ている。

 

 まず、「まともな青春を送れなかった学生がやってきて、用意された環境で正しい学生生活を送り、満足して成仏する」仕組みというのは、まさしくオタク向けアニメや恋愛ゲームの仕組みそのものを指している。容姿や性格等の理由から人生を捻転させてしまったがためにまともな青春を送れない(送れそうにない)オタクたちが、世間的に、あるいは恋愛的に理想とされるチュエーションを描く作品に自己を投影して代替的な満足を得るというのは、エロゲや深夜アニメの消費用途としての主要なものだろう。AB!の『世界』は、この消費構造の、何の捻りもない馬鹿正直なメタファーである。

 

 ファンタジーと美少女の世界に浸りに来た2010年のオタクに対し、「これがエロゲ・アニメの消費構造です」というメタ視点を突きつけるのは、エロゲをしていたらディスプレイが暗転して自分の顔が反射して映る並の衝撃を与える。

 ソシャゲに没頭する人に対して「あなたは複製可能な画像データの収集欲のために何万円も使ってるのですね」という言いがかりをつけるのがナンセンスなように、何かに没頭している人間に対してその欲望の充足構造をメタ的に見せつけるのは非常に反感を買う。

 当時のオタクはこの設定に何を思ったのだろうか?

 

 何よりも救いがないのが、これをやっているのが、Key自身ということだ。CLANNADリトルバスターズ!などの青春モノでオタクの擬似青春を補填する役割を担い利益を上げてきたKey自身がこの構造をオタクに突きつけるのが狂気の沙汰である。大切な顧客に対し何をしたいのだろうか?
 

 エロゲやアニメ業界と何ら関係のない人間が実験的な意図からこういった構造を突きつけるのはよくあることだろうし、それはそれで評価される内容だと思う。
 

 しかし、人気絶頂のアイドル本人が、ファンはどういう心理で自分を応援しその心理に自分はどのように漬け込んで支持を得ているかを解説するとか、ディズ◯ーラ◯ドがブランド価値を維持するために最適な入園料と客層、夢の売り込み方について分析した資料を公開するいったメタ的行為は、没頭している消費者を醒ましてしまい業界を破壊する。
 

 なにも没頭している側はその構造に気がついていないわけではない。「どうせあのアイドルには彼氏がいるかもしれないけど、でも、このライブの時間だけは僕を一番応援してくれる素敵な女の子」とか、「あのキグルミに人が入ってることは知っているけど、それでも本当に夢の国の住人として最大限の演技をしてくれているから私は安心して夢に浸れる」という、コンテンツの提供者と消費者が互いに配慮しあって世界観を作り上げていく繊細な意識の上に、そういった「没頭の消費」は成り立っている。
 

 その没頭の構造をなぜあえてこのようにメタに見せつけたのか、理解に苦しむ。それが意図的にせよそうでないにせよ、「まともな青春が送れなかった」というテーマは一番の顧客の属性と重なるという点で、繊細に扱わなければいけなかったのではなかろうか。

 

 正直、「○○は✕✕の比喩!!メタファー!」のようなエヴァの際に流行った作者置いてけぼりの謎考察のようなことはしたくなかったが、あえて「わざとやっている」という視点に立てば、他の設定についても何らかの解釈ができてしまうことに気がついたので記述しておく。

 

 まず、『神』と呼ばれる存在についてである。AB!の『世界』に来た死者は、神らしき誰かによって与えられた徹底的に優しい世界で楽しく青春を送るが、この誰かというのは要するにアニメやエロゲの作者だろう。神の存在は最後まで出てくることはない。神を引きずり出すとかなんとか言ってたSSSだが、後半ではいつの間にか神は目的から消え、自分たちがいかに満足して成仏するか、に目的がすり替わっている。そもそもこのアニメのキャッチコピーは、「神への復讐、その最前線」だ。物語後半に行くに連れ、あまりにも前線から後退しすぎている。これは作品の考察とかフィクションへの抵抗をやめ、オタクは作品でしっかり満足すべきという製作者からのメッセージだろうか。
 
 また、『世界』に来た人間は、突き詰めると矛盾があることに自覚的であることも重要な論点だ(NPCの行動パターンには限界があることが作中で分かっている)。矛盾に目をつぶり、誰がこの世界を用意したかについても疑問視せず、楽しく教師の言うとおり生活していると、満足して成仏できる。
 これは、エロゲやアニメがオタクの歪な願望を実現するため、ポリティカル・コレクトネスを無視した世界観を作り上げ、オタクはそれを意図的に無視している構造と似ている(『安全に痛い自己反省』のことだろうか)。

 

 そして、その「青春の謳歌」に抵抗しているSSSだが、彼らと直接敵対するのが「天使」だ。彼女は神の使いではなく、単に世界のバグをつくプログラムを用いて自らを強化した存在なのだが、要するに、ダメなオタクたちを成仏させるために強化されたヒロイン像である(まさに天使だ)。彼女は人間でありつつ、生徒会長としてNPC的に振る舞い、学生たちを成仏させるべく正しい青春を提示してきた。その献身的努力には、多くのエロゲやアニメで人間性を毀損されつつオタクたちを慰めてきたヒロインの抽象的概念、というものを感じる。
 
 そして物語の終盤では、かつてこの世界のバグを発見したプログラマーの存在が明らかにされる。彼は「この世界で愛に目覚めてしまうと、永遠にこの世界で愛し合ってしまうため、強制的にNPC的に人格を変えて成仏させる仕組み」を生み出したことが説明されるが、もうこれは、二次元の嫁にガチ恋すると永遠に引きこもってしまうオタクが生まれてしまうことへの業界としての罪悪感そのものであろう。
 

 

 よくこんな設定を公共の電波に載せたなと思う。もし自分がリアルタイムで視聴していたら、回線を切って首を吊って死んでいたかもしれない(2010年であればこのコピペ定型文も通用しただろう)。当時のオタクたちはAB!の放映を見て何を思ったのだろうか?「天使ちゃんマジ天使」が本当にメインストリームだったのか?

 

 放映が2010年であることを考えると、「彼らは刺されないか?」という心配より、「製作者達は今も無事に生きているのか……?」という心配のほうが適切だろう。興味から調べてみると、どうやら同じような制作チームで2015年にCharlotteという作品を作っている。どうやら制作チームは無事らしい。
 当時、リアルタイムでAngel Beats!を見ていたオタクは何を思ったのだろうか?考察サイトをいくつか眺めてみたが、同じような疑念を持った人は居なかった。しかし、これは明らかにオタクを殺しに来ている作品で、少なくとも、当時のゼロ年代のオタク達はAngel Beats!にそれなりの覚悟を持って反論しなければいけなかったのではないかと思う。
 

 

 そんなことを思い、一気にこの記事を書き上げた。というのは嘘で、仕事の忙しさから、この文を書いているのは、書き始めから一週間経ってからのことである。
 一週間経って思うが、上に書いた内容は割とそんなに怒るような内容でもないことに気づく。
 今ではぼんやりと「エビ!(※Angel Beats!のこと)面白かったなぁ」とか「エビ!のゲーム買おうかなぁ」くらいにしか思っていない。
 もしかしたらもう、エビ!のような作品に対してむりやり考察してどうこういうタイプのオタクは、現代には生き残っていないのかもしれない。視聴して一週間も経てば、作品から得た感動や鮮烈な怒りは、消え失せてしまうのだ。
 だから、こうしてむりやりにでも文章にしたことには意味があるのかもしれない。いつのまにかエビ!への違和感を忘れてしまったオタクがもしかしたらたくさんいるかもしれない。そんな彼らに、この文章が何かを思い出させるきっかけになればよい。

 

 そんなことを感じて、今はまた駅のホームに立っている。いっそう夏らしくなった風が頬を撫で、エビ!へ感じた何かを奪い去っていく。サラリーマンたちの雑踏の中で、意識はすでに仕事に向かっていて、エビ!の感想は徐々に消えつつある。人に熱い感動を与える作品はこの世にたくさんある。人間の可処分所得時間を遥かに超える量の良質なアニメやゲームが世界には溢れている。そのぶん、それらが与えた熱が冷める速度も早くなっているのだろう。

 

 人は忘れないために文章を書く。現代では、HTTPという素晴らしいプロトコルと世界中に張られたネットワークのおかげで、僕の抱えた奇妙な感覚が、熱を失わないうちに、遠くのオタクに伝わる。彼らが失った熱が、呼び戻されるように。そんなことを期待しつつ、僕はまた会社に行くのだ。

 

文系プログラマの憂鬱

「たまに世の中が辛くなると、ここに来てウォッカ・トニック飲むのよ」

「世の中が辛いの?」

「たまにね」と緑は言った。

「私には私で色々と問題があるのよ」

────村上春樹ノルウェイの森』より

 

人生はつらい。

つらさには色々ある。

砂漠の真ん中で今にも飢えそうな人の「つらさ」、

恋人に振られた時の「つらさ」、

はたまた親に怒られた女子高生の「つらさ」。

 

つらさは本当に多種多様で、単純な比較はできない。

 

しかし、文化や時代を超えても「それはつらいね」と共通に認識されているものがある。

よくある例としては、

親しい人の死、空腹、貧しさ、重い病気、

そして「文系学部卒でプログラマになる」ことである。

 

これらは洋の東西を問わず、「かなりつらい」と認識されてきた。

「つらさ」は宗教を生み、文学を作り、戯曲や絵画のモチーフとなってきた。

そして、「つらさ」を乗り越えるため人類は科学を発展させてきた。

 

しかし、未だ人類は「文系学部卒でプログラマになるつらさ」を克服していない。

 

死や病、貧しさや飢えは現代の科学をもってしても、予測や避けることが難しい。

 

だが「文系学部卒でプログラマになる」ことは知恵を絞れば避けられる。

きちんと大学の専攻とかこれまでの経験、自分の素養を考えて、

あとはIT企業にエントリーシートを出さないだけである。

 

人類の歴史において、時代の「節目」と呼ばれる瞬間がある。

その「節目」には、必ず文系学部卒でプログラマになる愚か者が現れるのだ。彼らはいつの世も、神々とSE・プロジェクトリーダーの怒りを買い、歴史書のインクの染みとして消えていった。

 

そしてその愚か者の一人がこのブログの筆者であるということには皆さんもすでにお気づきのことであろう。

このブログは、そんな「文系学部卒でプログラマになる」ことの憂鬱をモチーフにした壮大な叙情詩なのである。